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大石神影流関係史跡


大石進種次、種昌父子の墓石


 大石進種次、種昌父子の墓石は大牟田市宮部の吹上にあります。左に父の種次の墓、右に種昌の墓石があります。二人の墓石は大きく、墓石の両脇には門人によって手水鉢が置かれて、門人名を記した花立もおかれています。
大石進種次の戒名は「大量院殿武観妙楽居士」と墓石の右側面に刻まれ、墓表には大石武樂種次墓、左側面には文久三亥年十一月十九日行年六十七歳と刻まれています。
 大石進種昌の戒名は墓標に「寛量院殿武雄達道居士」と刻まれ、右側面に大石進藤原種昌、左側面に行年五十五歳明治十一年十二月二十六日と刻まれています。





大石進種次の墓石
大石進種次(左)、種昌父子(右)の墓石
大石進種昌の墓石


大石先生碑

 大石先生石碑は明治15年に大石進種次、種昌父子の事績をたたえるために門人によって大牟田市島崎の街道の脇に立てられました。現在では狭い脇道ですが、江戸時代には大名行列が通った街道であったいうことです。
 石碑には次のように刻まれています。
「得名一郷者一國皆貴之得名於一國者海内皆重之而至得名於海内者則天下後世皆無不貴且野焉其名之廣也其澤所及亦從而大矣往時徳川氏之覇大下也至文政天保間可謂極其盛矣當此時名臣良吏巨儒碩學相繼輩出至若詩賦俳諧琴棋書畫苟善之者皆雜然集於江矣矢而當時以撃劍鳴於海内者無過我大石先生者也先生諱種次通稱進後更七大夫致仕號武樂筑後三池郡人也身長七尺大耳隆準音吐如洪鐘十四世祖曰下總仕高橋氏天正中父子兄師範先生幼繼箕裘及長藝弟四人殉難於岩屋寶満二役至十二世祖種重始仕柳河侯祖種芳父種行並有武幹蒙藩命爲槍劍術大進乃依劍游歴四方試其技莫散當者抵江都有男谷某者爲善素撃劍名噪於都門稱爲海内無敵手矣一日先生與之闘技某不能一出其技倆而罷於是先生之名遂恣於一世列侯爭招致之藩邸以ヘ導其士及還郷四方執贄者常填塞於門無國不至焉皆成業而歸々則亦各授其徒是以天下之劍客以先生私叔之者蓋又未知其幾千人也自是天下劍法一變皆以先生爲宗師矣鳴呼先生所謂得名於一世而澤及天下者非耶文久三年十一月十九日以病没享年六十七葬於郡之宮部村先生娶圓慶寺女生六子二女長曰某早世次種昌嗣後餘皆出嗣他姓獨季雪江分戸焉女一早世一適安照寺種昌稱進士後更進甫五歳能暗刀法藩觀其技大奇之賜畫幅弱冠藝術大進知名於天下應近隣諸藩之聘往ヘ導其士皆大被尊禮後屡以事之江都諸藩邸亦爭招致之時江都有桃井某千葉某者善撃劍天下無能當之者種昌與之齋名一日與二子較技都人皆以爲巨觀鹿田集如堵相撃數合種昌勝居多焉於是都下劍客請ヘ者翕然足相踵其門唯恐後也可謂不墜其家聲矣明治十一年十二月廿六日没享年五十五葬于先塋之種昌娶坂井氏無子生一女養森氏子五十槻爲嗣以女配之夫世以技藝得名於海内者亦多矣然大抵止其身臻其子孫則寥々無聞其父子相繼赫々耀世若先生者蓋不可多得之也頃者其門人松岡進士今村廣門等相謀欲建碑以表先生之事來請余曰先生没既久矣唯見墓石肅然立於邱原而未有一碑以勒其事者甚非崇師之意也願子爲誌之鳴呼吾之不文何足以與於此雖然以余好讀經央來ヘ授於此郡三年於茲常察其風俗淳良朴實而郷中多磊落豪宕之士蓋有以見先生之遺風猶存者自今而誘之以忠孝仁義之道視之以古今亂興廢之蹟則峻徳逸材卓々得名於海内者亦將相踵而出吾雖駑鈍將俛焉從事於此也蓋亦先生之所樂歟遂不辟而略書之至其藝術精妙之墓奥則世固有知之者豊待餘言哉
  明治十五年十一月                  中學ヘ諭 笠間u三撰
志賀巽軒先生嚮撰大石二翁之墓表分爲二篇及刻五石其門人欲更合五於一篇而先生既逝今村廣門等來謀五於余余乃敢就先生之原文少加詳略合爲一篇而與之然余素不閑文辭今取先生之文而料理之可謂拙工傷良材知觀者幸勿咎                                 u 三 誌



大石先生碑
大石進の身長の記述
男谷精一郎との   
        試合の記述
・大石一先生碑

 大石一は大石進種次の子であり大石進種昌の末弟である大石雪江の子です。多くの門人を育て地域の教育、政治に貢献しました。
 石碑は白銀川畔にあります。


大石一先生碑

・早馬神社

 早馬神社は旧大石邸の西に在ります。大石導場が諸国からの修行者で手狭であったため、この境内でもさかんに稽古が行われていました。
 現在の旧大石邸には大石家とはゆかりの無い方がすんでおられますが、広い敷地はそのままで往時の庭園を偲べ、また当時の導場があったところも残っています。


慶応三年に大石家が奉納した石灯籠

早馬神社
早馬神社参道
・諏訪宮


 当時の稽古は導場が手狭なため早馬神社と同じく、早馬神社境内が使えない時には、諏訪宮境内が使われることがありました。天保8年に記された土佐中村の樋口真吉の日記には次のように記されており、諏訪宮でも稽古が行われていたことがわかります。

10月
「廿八日、旦、両人大石氏へ行、先生未帰、若先生大石駒太郎対面、八ツ時より桑原 門人湯村猪三郎同道ニて稽古ニ行、折節頭痛ニテ闕席、大石閊ヘニテ久福木村・諏訪宮ニテ稽古、人数拾一人」
「晦日、又諏訪宮稽古、人数八人、此日先生出席あれとも稽古ナシ、門人相手ニテ八時畢、姓名修行帖ニ譲」
11月
「十七日、大石とり込み(明日神祭)、久福木の宮ニテ稽古、人数四人、猪三郎・和作剱術相手、小勢ニ迫ニテ止る、寒景涼」
「廿日、諏訪宮ニテ稽古、人数六人、剱槍、和作・五市・々々・々々、〆四セリ、八ツ時終」

諏訪宮境内

諏訪宮参道



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