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師範と伝系 大石神影流関係史跡 大石神影流に関する考察 |
大石神影流に関する考察
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大石神影流について、その成立時期、稽古、門人数について考察します。本稿は以下の二つの資料を出典とします。
日本武道学会第40回大会発表抄録<於:東海大学高輪校舎 平成19年8月30日(金)>
「大石神影流『諸国門人姓名録』について」森本邦生
日本武道学会第42回大会発表抄録<於:大阪大学豊中キャンパス 平成21年8月24日(月)>
「樋口真吉 第一回廻国修行日記について―大石神影流の土佐への伝播―」森本邦生
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愛洲陰流から大石神影流の手数が成立した過程を以下の資料から考察することができます。
@ 「文化5年(1808)10月 愛洲陰流の伝書(冒頭部欠損)」
村上一刀尉源長寛の門人田尻藤太から由布大炊助にだされた伝書で、伝書内には愛洲陰流の流名が記されていますが、押された流名の印には「新陰流」とあります。愛洲陰流という流名はときに新陰流と称されることもありました。田尻藤太は大石進種次の父
大石太郎兵衛尉種行の実父です。
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愛洲陰流の伝書 |
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A 「天保5年(1834)正月吉日 『新陰流剣術陽巻』」
大石進種次から今村民之助に出された伝書で、押された流名の印判には「愛洲神影流」とあります。
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『新陰流剣術陽巻』 |
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B 「天保8年(1837)11月に大石進種次に「愛洲神陰流」の免許を授かった樋口真吉が記した『撃刺小傳』」と「桑原弥之助に出した『大石神影流刀術截目録』『陽之巻』」
大石進種次から自分に出された伝書を写したものらしく『大石神影流刀術截目録』『『大石神影撃剣陽之巻』『陰之巻』『免状之事』が記され、伝書の写しの末尾に「天保八丁酉十一月 大石進藤原種次(花押) 樋口平八郎殿」とあります。樋口真吉の日記によれば大石進種次に天保8年10月29日に入門し、同年11月26日に皆伝を授かっています。
樋口真吉が安政2年(1855)に門人 桑原弥之助に出した『大石神影流刀術截目録』『陽之巻』
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『撃刺小傳』 |
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『大石神影流刀術截目録』 |
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『陽之巻』 |
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C 「天保13年(1842)〜天保14年(1843) 『大石神陰流刀術截目録』『大石神陰流剣術陽之巻』『大石神影流剣術陰之巻』」
大石進種次から笹尾卯三郎が授かった伝書で押された流名の印には「大石神影流」とあります。
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『大石神影流剣術陰之巻』」 |
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D 明治30(1897)年1月7日 『大石神影流剣術陽之巻』
今村廣門と大石雪江の連名で今村長義に出された伝書。
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『大石神影流剣術陽之巻』 |
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以上の資料から以下のことがわかります。
1 天保5年(1834)の伝書では愛洲神陰流と形名に大きな変化はない。
2 天保8年(1837)の伝書の形名は同じ『陽之巻』でありながら天保5年のものとは大きく変化している。
3 天保13年(1842)〜天保14年(1843)の伝書の形名は天保8年(1837)の伝書から大きく変化している。明治30年(1897)の伝書の形名は天保13年(1842)〜天保14年(1843)の伝書の形名から変化がない。
資料の比較から大石進種次によって大石神影流の体系が整えられたのは天保8年(1837)から天保13年(1842)の間の頃と考えられます。
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天保8年の大石家での土佐藩樋口真吉の稽古内容を表にまとめます。
樋口真吉自身が稽古していなくても『第一回廻国修行日記』、『劍槍修行流名録』に稽古が行われたことが明らかな場合(○)としました。 剣術稽古は防具着用での稽古の事、槍術稽古は防具着用での稽古の事をいいます。
樋口真吉が大石進に入門して去るまでの間、真吉自身の稽古の実日数は24日であり、防具着用の剣術の稽古が21日行われ、防具着用の槍術の稽古が12日行われています。
表からもわかるように、大石導場では剣術と並行して槍術の稽古も行っています。また、他藩からの門人にも槍の稽古をつけていました。大石家は大石進種次の祖父である大石遊剱の代から大石進種昌まで代々柳河藩の剣槍師範であり、明治維新まで槍術を教授しています。のちに他藩からの門人で槍術の稽古を望むものは加藤善右衛門のもとでの稽古を勧めました。
表 樋口真吉の大石家での稽古内容
日付 |
剣術稽古 |
槍術稽古 |
手数稽古 |
その他 |
10/29 |
〇 |
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「先生ニ入門の約ヲナス」 |
30 |
〇 |
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11/ 1 |
〇 |
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表5本習 |
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2 |
〇 |
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3 |
〇 |
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裏5本習 |
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4 |
〇 |
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手数稽古 |
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5 |
〇 |
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6 |
〇 |
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7 |
〇 |
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「先生より樺島和作を以伝書之事申来ル、固辞して諾」 |
8 |
(〇) |
(〇) |
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柳河に行く |
9 |
(〇) |
〇 |
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「撓尽槍計」 |
70 |
〇 |
〇 |
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槍、「双方貮間柄」 |
11 |
〇 |
〇 |
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12 |
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永江・橋本、大石先生を亨、先生、樋口等を同道「馳走」を受ける |
13 |
(〇) |
〇 |
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14 |
〇 |
〇 |
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15 |
〇 |
〇 |
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16 |
〇 |
〇 |
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17 |
〇 |
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18 |
〇 |
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相撲見物、「馳走を預」 |
19 |
〇 |
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「大石氏へ行大ニ馳走ニ逢」その後、石炭炭鉱見物 |
20 |
〇 |
〇 |
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21 |
〇 |
〇 |
手数稽古 |
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22 |
〇 |
〇 |
新規12本ヲ習 |
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23 |
〇 |
〇 |
長刀3本習 |
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24 |
〇 |
〇 |
手数稽古 |
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25 |
〇 |
(〇) |
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26 |
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「大石氏より皆傳を授」 |
27 |
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二刀・短刀ヲ習 |
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28 |
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「大石先生へ暇乞」 |
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大石家には初代大石進種次と二代大石進種昌の門人の記録である『諸国門人姓名録』が残されています。
『諸国門人姓名録』の表紙には「大石種次 大石種昌 取立」と記されており、大石家二代にわたる門人の姓名録であることが分かりますが、ごく一部を除き入門の時期についての記述はありません。姓名録の最後部に伊予吉田藩の門人4名の姓名を記し、明治3年(1870)の記述があります。
各藩ごとの門人数は以下のとおりです。(『諸国門人姓名録』の区分のまま)
藩名
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人数
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藩名
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人数
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藩名
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人数
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13名
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2名
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5名
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筑前秋月藩
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11名
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嶋原藩
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4名
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松平但馬様内
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1名
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長州萩藩
|
43名
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小倉藩
|
5名
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信州松代
|
1名
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土洲藩
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60名
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中津藩
|
2名
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江州大津
|
1名
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筑前福岡藩
|
4名
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久留米藩
|
9名
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防洲岩国
|
5名
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濃州今尾
|
1名
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清末藩
|
2名
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薩洲高岡
|
1名
|
|
1名
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水戸藩
|
1名
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泉州信太森
|
1名
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肥後熊本藩
|
11名
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加洲金澤藩
|
1名
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日向高鍋
|
2名
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肥後相良人吉
|
2名
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|
松前藩
|
1名
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石洲津和野
|
2名
|
天草
|
3名
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京都
|
1名
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備後福山
|
8名
|
対洲藩田代
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11名
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京都油小路
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5名
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丹後宮津
|
1名
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長府藩
|
8名
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日向飫肥藩
|
14名
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豊後岡
|
1名
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蓮池藩
|
9名
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延岡藩
|
7名
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三池藩
|
79名
|
遠州
|
1名
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|
備前岡山
|
1名
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柳河藩
|
252名
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鹿島藩
|
9名
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徳島
|
4名
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伊予吉田藩
|
4名
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大村藩
|
3名
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作州津山
|
1名
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武雄
|
17名
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豊後府内
|
1名
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諫早
|
6名
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予洲今治
|
3名
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平戸藩
|
3名
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予洲松山
|
2名
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深堀
|
1名
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讃洲多度津
|
3名
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唐津藩
|
2名
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参州西尾
|
1名
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五島福江藩
|
1名
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播州安志
|
1名
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上記から分かるように、総門人数655名で、九州地方に233名(柳河藩の門人を除く)、中国地方に71名、四国地方に76名、近畿地方に10名、その他の地域に12名の門人がいます。
中国地方の71名うち43名が萩藩に属し、四国地方の76名のうち60名が土佐藩に属しています。
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