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流派の歴史

  師範と伝系    大石神影流関係史跡     大石神影流に関する考察




 
師範と伝系

   

 1.師範


大石進以前

 柳河藩に愛洲陰流剣術と大嶋流槍術を伝えたのは豊後岡藩浪人の村上一刀長寛です。大石進種次の祖父種芳は村上一刀から愛洲陰流と大嶋流槍術の免許を得ました。
 村上一刀についての来歴は詳しくわかっていませんが、柳河藩から扶持をもらっていたものの、後に縁は切れたようです。村上一刀はこのほかにも奥山真貫流柔術を伝えており、明治期まで柳河では奥山真貫流柔術が稽古されていました。また、愛洲陰流剣術は村上一刀から久留米藩にも伝わっています。


大石進種次 (1797-1863)

 大石神影流剣術の創始者である大石進種次は寛政9年(1797)に三池郡宮部村に生まれ、幼少より祖父の大石種芳から愛洲陰流剣術と大嶋流槍術の指導を受けました。文化10年(1813)頃から、これまでの愛洲陰流の袋撓と防具を改良し始め独自の突技と胴切の技をはじめたといいます。文政3年(1820)に祖父種芳より大嶋流槍術の皆伝を受け、文政5年(1822)には愛洲陰流剣術の皆伝を受けました。
 文政8年には父の後を受けて柳河藩剣槍師範となり、天保3年(1832)の暮れに聞次役として江戸に出て翌年にかけて江戸で試合を行います。このときに試合した相手は定かではありませんが、男谷精一郎との試合は有名です。
 天保10年(1839)には再び江戸に出て試合を行っていますが、この時、水野忠邦の前で試合を行い忠邦より褒美の品を与えられています。


大石進種昌 (1825-1878)

 大石進種昌は文政8年(1825)に種次の次男として生まれましたが長男が早世したため大石神影流を継ぎました。父と同じく江戸に出て鏡心明智流の桃井春蔵らと試合を行い高名でしたが、父種次と同じ進を名乗ったため父の事跡と混同されることがあります。要請により他藩にも指導に出向き、対馬藩田代領、日算平戸藩、長州藩、土佐藩などで指導をしました。 嘉永2年(1849)の豊後岡藩の江戸屋敷での試合や嘉永4年(1851)の伊勢津藩の江戸屋敷での試合には大石進種昌が出場しています。


大石雪江 (1839-1904)

 大石雪江は大石進種次の末子で天保10年(1839)に生まれました。父種次と兄種昌に大石神影流剣術と大嶋流槍術を学び、安政5年(1858)には肥前武雄で2ヶ月間指導をし、慶応4年(1868)には兄種昌より免許を授かります。明治元年(1868)には柳河藩英隊に編入され奥羽に出陣し、明治3年には九州一円を廻国修行し469名と試合をしています。
 兄の大石進種昌に男児がなかったため大石本家の道場で今村廣門とともに相師範となり大石神影流を守りました。大日本武徳会福岡地方委員を務め明治37年(1904)に永眠しました。


井真澄 (1854-1936)

 安政元年に家川念流剣術・宝蔵院流槍術師範である板井一作の次男として生まれました。叔母が大石進種昌夫人であったことから、大石進種昌の孫の後見のため宮部の大石家に移りました。大石雪江と今村廣門に師事し、両師範亡き後大石神影流を守りました。


大石一 (1872-1951)

 大石一は明治5年に大石雪江の子として生まれました。宮部の道場で父大石雪江と今村廣門の指導を受け、教育の職につきながら白銀の自宅に道場を開き多くの門人を育て、大石神影流を孫の大石英一に伝えました。のちに銀水村村長を務めるなど多方面で活躍しました。門人により白銀川畔に石碑が建てられています。



 2.伝系


愛洲陰流 流祖








足利日向守愛洲惟孝
奥山左衛門大夫宗次
上泉武蔵守藤原信綱
長尾美作守鎮宗
益永白圓入道盛次
吉田益右衛門尉光乗
石原傳次左衛門尉正盛
村上一刀尉源長寛
大石遊剱入道種芳
大石太郎兵衛尉種行
大石神影流 流祖 大石七太夫藤原種次
大石進種昌
大石雪江
板井真澄
大石一
大石英一
大石馨  森本邦生


大石神影流剣術師範の肖像

大石雪江 板井真澄
大石一 大石英一 森本邦生
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