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1.伝系 2.各師範の略歴 3.細川家墓所 4.大森流の成立に関する考察
・細川家墓所
・島村義郷先生の墓石
・細川義昌先生の墓石
・島村義郷先生の石碑
・門弟が島村義郷先生のために供えた手水鉢
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3.細川家墓所
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平成13年5月21日(月)、親子二代に渡り無双神伝英信流の免許皆伝であった島村義郷・細川義昌先生の墓所を高知県吾川郡春野町秋山(写真9)に訪ねました。
細川家は江戸時代は郷士で地主であったため、現在の家(写真11)もその地域の他の家に比べ敷地が広く、閑静な場所にあります。
墓所では墓石の墓碑銘を記録し、島村義郷先生の為に門弟が立てた石碑や手水鉢の文字を記録し写真に納めました。現在は居合道においては細川義昌先生のほうが島村義郷先生よりも有名ですが、当時は島村義郷先生のほうが居合では高名であったのではないかということがその石碑等から推察されました。
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(写真9) 春野町秋山 |
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細川家墓地(左は島村義郷石碑) |
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(写真11) 現在の細川家 |
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・島村義郷先生の墓石 (写真12)
・正面・
修法院即心日了居士
・左側面・
島村右馬丞義郷
文化十三年丙子四月十一日生
・右側面・
明治三年庚年正月廿三日歿
享年五十有五
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(写真12) 島村義郷師墓石 |
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・細川義昌先生の墓石 (写真13)
・正面・
細川義昌墓
・左側面・
島村馬之丞三男
嘉永二年十一月十日生
(註;父右馬丞の名に当て字を用いている。これが植田先生の書かれた形の解説書の名前の字の間違いの一因になったものと推察できる。植田先生の書には島村馬之亟とある。)
・右側面・
大正十二年二月廿四日永眠
行年七十五歳
・背面・
人はパンのみにていくる者に非す只神の口より出るすへての主に因ると記されたり
(一る右傳四章四節)
この聖句を常に忘れす感謝と歓にみちて永き眠に就く
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(写真13) 細川義昌師墓石
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・島村義郷先生の石碑 (写真14)
・正面・
島村君者秋山邑人也以郷士隊少講武脩文業成而施于郷〃里被其滓者衆矣既笏之明年門人某来乞曰吾邑僻郷不知礼節不解文字自吾嶋村先生起而為之倡人始知方向文武勃然蔚興一郷化
・左側面・
為礼義人之俗矣顧吾輩親被薫陶者其句不圖報効哉請子不朽諸按状君諱義郷称右馬丞考諱易直妣某氏君承其後配田所氏子男二長義昌次義徳義昌立為嗣君之業博訣干経干兵干剱干砲以至
・背面・
桴鼓之細莫不講究而尤長抜刀技従学者百餘人旁善聿其赱亦相匹安跂中擢海防官後又挙為抜刀師随有廩粮之賜君以明治庚午正月廿三日歿享年五十有五葬先?執者填咽門巷蓋僻郷
(?は判読不能)
・右側面・
所希有也此不可以不銘ニ曰
来秋之山 骨立鬱盤 風霜一降
木葉闌斑 骨立其武 闌斑其文
明流其滓 幽安其鬼
明治六年癸酉臘月岡本一方撰并書
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(写真14) 島村義郷師石碑 |
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・門弟が島村義郷先生のために供えた手水鉢 (写真15)
・正面・
献島村義郷先生
(九陽の紋)
生徒中
・左側面・
岡崎元祐
久世吉太郎
久世久太郎
久世善助
久世兼太郎
久世喜之助
久世寿之助
久世愛次
久世善次
・右側面・
明治六年
酉六月日
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(写真15) 手水鉢 |
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以上、島村義郷先生の墓石と細川義昌先生の墓石、ならびに島村義郷先生の石碑と手水鉢について調査した事項について記しましたが、島村義郷先生は黒船来航以降の高知藩の郷士として、居合だけではなく、軍太鼓や砲術等の門弟も取っておられ緊迫した時代に生きた武道家と言えるでしょう。
一方、細川義昌先生は明治維新の際、高知藩が高松城の包囲に向かうために出陣される時に居合の免許皆伝を下村茂市先生より授かっておられます。先生が二十歳の頃のことです。この時代の差とキリスト者か否かということが門弟の数の差となって表れ、石碑の有無につながったのでしょう。
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