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1.渋川一流の成立 2.流名について 3.伝系 |
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渋川一流柔術の流祖、首藤蔵之進満時は幕末の人で、彼の叔父で、宇和島藩浪人と伝えられる宮崎儀右衛門満義に連れられて、広島藩安芸郡坂村に来住しました。 蔵之進は宮崎儀右衛門を師として渋川流と難波一甫流を習得し、さらに他所で浅山一伝流をも習得して「渋川一流柔術」を創始しました。 ある日、広島城下にでていた蔵之進は五・六名の広島藩士と争いになりましたが、「渋川一流」の業でこれを難なく退けたところ、たまたま居合わせた松山藩士の目にとまり、その推挙により松山藩に仕えることになりました。これは天保十年頃のことと伝えられていますが、その後、蔵之進は松山においても「渋川一流柔術」の指南を始めました。 明治維新以降、首藤蔵之進は親族のいる広島県安芸郡坂村にたびたび帰り、広島の門弟にも「渋川一流柔術」を伝え残し、明治三十年 八十九歳で松山に於て没しました。 墓は、松山の宝厳寺と安芸郡坂町の二ヶ所にあります。 |
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渋川一流柔術は、首藤蔵之進満時によって、渋川流、難波一甫流、浅山一伝流の三つの流派をもとに創始されました。渋川一流の「渋川」は渋川流に、「一」の文字は難波一甫流と浅山一伝流の「一」にもとづくと伝えられています。したがって渋川一流は、渋川一甫一伝流の意で、「渋川一流」と銘名されたものです。 |
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流祖 首藤蔵之進満時 (維新後) |
宮田友吉國嗣(左) |
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車地國松正嗣 |
畝 重實嗣昭 (掛軸は畝先生の書) |
森本邦生嗣時 |
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